スウエーデンの面白いものたち


by nyfiken
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雑感

飛行機がどうしても怖くて乗れない人種がいる。高所恐怖症あるいは、パニック症候群だったりする人たちだ。怖い怖いと思っている人は、冒険をしない分リスクが少ない。長生きをする人は、怖いから何もしない人も中にはいっているかもしれないが、そういう意味では、海外にでてきた人たちは、海を渡って飛行機に乗ってきたつわものたちだから、怖がりではない。海外旅行を楽しむ人もそれなりの覚悟を持って海外に渡る。

飛行機に何回も乗っても、いびきをして平和に眠れる人は、少ないかもしれない。よく眠れないのは、何回乗っても同じである。しかしながら、飛行機でぐっすり休める人もいるから、人による。

マレーシア航空は、私が以前インドネシアに住んでいた頃から、信頼のおける非常に優秀なパイロットが多いという噂の優秀な飛行機会社であり、イメージもよい。だからこそ、今回のニュースは驚いている。

インドネシアから日本に帰る時のルートとして、シンガポール経由、マレーシア経由、タイ経由などを経験しているが、記憶が正しければ、シンガポール経由で日本に帰った時の揺れ方が、尋常ではない経験をしたことがある。ちょうどベトナムの海から上に上がって行く頃だったろうか。あのあたりは気流の変化が激しい。それまでいい感じの音楽を聴いていたが、もう音楽など聴いている気分になれないほど揺れる場合には、ゆっくり飲み物も飲む気にならなくなり、聴いていた音楽も落ち着いて聴いていられなくなる。チャンネルをカチカチと変えて、心を落ち着けようとする。

スチュワーデスもサービスをやめ、すわり、そしてみんなは、神に祈る。ふわーと上に上がったり、下に上がったり。手に汗を握る。飲み物が入ったグラスからこぼれそうになるので、飲み干す。リラックスするような音楽が流れるチャンネルに変えるような経験は、何回もフライトを経験すると誰もが経験することだろう。無事飛行場についてほっとする。

東南アジアに住んでいた頃の、経験で、シンガポールからインドネシアまで飛行機が発着し途中で戻り、2回繰り返し、飛行機の中で待たされ、部品交換でどうにもならないことが分かった時点で、シンガポールの空港で3時間ほど待たされた後、別の飛行機で再度インドネシアまで飛んだ。無事についたが、疲労感というより過労に近いくらい疲れた。パイロットならなおさらのことだろう。


インドネシアに住んでいた頃、日本領事館の文化担当官が国内のガルーダの航空の飛行機事故で亡くなられた。日本語教育に力をいれ、国立NS大学の日本語学科の現地の先生向けに日本語教育の第一人者の金田一先生を、インドネシアまで講師としてお招きし、短期の日本語教育法の講座を計画、準備遂行された。受講者は、日本語を教える大学の現地の先生のみならず、高校教師、私立の日本語教育に携わる人たち。

温厚で温かいお人柄で人望があった。インドネシア語がよくおできになり、国の事情をよく理解されていらした。インドネシアの大学を卒業し、イスラムに改宗し、奥様も日本人で当時小さな男のお子さんがいらした。事故後、親しい日本人が集まり、知人たちが、おにぎりをにぎり、家で情報を収集し無事に見つかることを願った。携帯電話もインターネットもない時代。今とは全てに時間がかかり、何が起きたのか、知る術がなかったが、じっと情報を待った。遺体が運ばれているという知らせが夜はいった。誰かが様子を伺いに行くことになった。イスラムの国では、24時間以内に埋葬しなければいけないために、家族がどんどん持っていくという話をきき、ご本人を見つけなければと皆が思った。

大学の先生のチーフがさあ、行きましょう。ここで何時間待っていてもなにも様子が変りませんから、そこまで行って情報を集めて確認し、なにか手がかりがあればまたこちらに伝えられますから。と私を促し、躊躇はあったものの、一緒に場所にでかけた。女性の先生の運転する車に乗ってでかけた。日本人だけ行くよりは、現地の先生がいるほうが情報が得やすいですから。日本人家族の数が多くない都市では、コミュニテイが小さい分、そういう時は、結束も固かった。

暑い熱帯夜、車で場所に向かった。遺体の安置場所の周りは人が集まり、家族が押し寄せた。いり口の外で待つ多くの人たち。でかけたものの、ちらりと中をのぞき、私は目を覆い、自分がとても中に入って歩ける強さがなかった。インドネシアのE先生に受付でご本人がすでに確認されているかどうかお願いした。多くは、判別が不可能と言うことを知り、また皆が待つ家に戻った。

容易に判定ができないことを知らせに戻った。ゆっくりと回る天井の大きな羽が暑いむっとした熱帯夜に回っていた。少し高い窓から中をのぞこうとして肩車の上にあがっている多くの男の人たちがいた。窓から漏れる明かりと天井を回る扇風機の大きな羽の動きを覚えている。

イスラムの国では、24時間以内に埋葬されために、間違って埋葬されることを一番畏れたが、運よく、日本から専門の骨の鑑定をする歯科医が送られ、ご本人が数人の中から確認された。
イスラム教徒であることが尊重されて、その地のモスクに埋葬された。日本から駆けつけた弟さんが、落ち着き、茶の湯ををたしなむご本人へとおみやげに美味しい銘店の季節の和菓子を持っていらした。
みなさんで召し上がってください。日本からの本物の季節の和菓子は、美しく美味しかったが、お茶の湯をたしなむ本人の口には入らなかった。

弟さんを待ち、お葬式が執り行われた。モスクに埋葬する際に、日本人の友人たちや領事館関係者が立会った。それまでイスラムのお葬式は私自身も誰も経験がなかった。数人で穴を掘り、白い布でぐるぐる巻きにされたご遺体を土の中に入れた。誰もが涙を流した。急に雷がなり、雨が降り出した。不思議に稲妻が光った時に、私の腕時計の皮バンドが雷雨の中埋葬時に、ぷちんと切れ土の上に落ちた。

多くの人に必要とされるよい人がどうして召されるのだろう。神様は本当に平等ではないと思うのである。日本人の歯の骨鑑定の専門家によりご本人と判定された。足の長さが似ている二つのものを判別する最後の手段が歯であるとは、驚いた。あれからだいぶ時間がたち、今ならばDNA鑑定で済むのだろうか。小さな3.4歳だった小さなお坊ちゃんは20代後半になり日本で父親になっているのだろうか。お父さんどこにいっちゃったの。と母親に無邪気に尋ねることばが無邪気なだけに、不憫だった。不思議に、ご本人のイスラム教のお祈り時に使う敷物が、焼けることなく唯一遺品として奥様の手元にそっくりそのまま届けられた。誰かが、小さな不満や文句を言わず、今あるささやかな幸せにちゃんと感謝するべきだねとぽつりと言った。
by nyfiken | 2014-03-10 05:38