スウエーデンの面白いものたち


by nyfiken

2012年 04月 07日 ( 1 )

天才カールラガーフェルドの描くシャネルの世界 パリと上海

上海と巴里。どちらの都市も私は好きだ。上海は過去わずか15年ですっかりと変わってしまった。
寂れた感じのオールド上海を知るものとしては、きれいになった上海の街から消えてしまったあの古い町や通りが記憶の中に生きている。パリと上海。魔都上海。そういえば、中国のリーダーは、貨物船でフランスに渡り、そして街を歩き、船でマージャンをしながら中国に戻った。

後に共産党のリーダーそして国家のトップにのぼりつめた周恩来巴里に留学していた。エジンバラ大学に行きたかったが、国費がとれず、断念してフランスに戻ったという。将来の国のリーダーになる若い中国の青年は、労働留学をした。ルノー工場で仕上げをするアルバイト、他の仕事をしながら、フランスで暮らし、国に戻ってからも、時代の波にもまれ失脚を繰り返し人生の浮き沈みを経験した中国のリーダー鄧 小平。小地主の子供だった。パリで一番おいしいクロワッサンの店を同じく留学していたホーチミンから聞いてお店に買いにいったくらいクロワッサンが好きだったという。何を思い、若き日フランスで暮らしていたのだろうか。苦学生だった東洋の共産党の若者は、共産党運動で、フランスを追われるように、それからモスクワへ。その時代に思いをはせる。
不思議なことに、毛沢東は若い時より年をとってからの顔がいい。周恩来は、日本に留学していたので、日本語ができる。

中国の要人の子息と日本人の妻の住むアパートを訪れた。澤地さんの昭和史の女たちにも書かれている母親の話題になった。日本人の母親が周恩来を尋ねた時、流暢な日本語で周恩来が話したという話をきいた。中国人のリーダーになった人たちは、なにも親のお金で留学や遊学をした人ではない。レストランの皿洗いから、鉄鋼工場などにつとめながら、苦労して地元の学校に入りなおした周恩来、毛沢東を最後まで支え、語学をもって外交に活躍した。。さて、鄧小平は、後美しい女優になった娘を養女で育てたが、毛沢東の4番目の妻、4人組みの紅青が、同じく女優だった。自分より美しく人気があった女優鄧小平の養女二嫉妬し、文革に紅青のさしずで、投獄されたといわれるが本当だろうか、虐待により障害者となり死んでしまった。鄧小平が障害者の権利など奔走したのは、そういった背景があるという。

中国の近代史特に文革時代の出来事に、万の数ほど言われぬ事情がある。中国人は、文革時代のことを話したがらない。1959年に生まれた知り合いの中国人からきいた話だ。子供の頃が文革で田舎に追われたエリートの父親が豚にえさをあげていることを書いた手紙を読んで母親が泣いたという話を思いだした。

今50代前半が文革が終わって、文核時代廃止されていた大学受験を開始。最初に大学入試をいっせいに行った時に入った年代である。多くは、エリートの子供たちだったが、母親が知識階級だった子供たちが、学校教育自体がなかった時代に、母親から勉強を習ったという。大学受験の告知が中国政府よって宣言された時、普通の人が準備する時間がなくても合格できたという。50代1959年生まれた前後の人たちでいい大学に入れた人の多くは、母親が知識階級のエリートが実は多いという。


シャネルとはまったく違う世界だが、どこかフランスと中国は似ている。


フランス人が思う東洋。




by nyfiken | 2012-04-07 04:52