スウエーデンの面白いものたち


by nyfiken
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核のゴミ抱える村 青森六ヶ所村ととりとめのない雑感





私が子供の頃、日本は、高度成長の真っ盛りで、田舎の町は、村おこしや中央からの工業誘致といったことに必死だった。働く人が出稼ぎにいかなくてもいい地元に産業誘致や、地方の財政が苦しいために、自民党が強い青森県は、自民党中心のもとに、中央からの工業誘致合戦が盛んだった。田舎のひとには、将来の青写真として、六ヶ所村工業団地といったイメージが作られていた。まさか、核の使用後のゴミがくるなど、40年以上前の田舎の人たちには、考えもしなかったこと。原子力に反対した田舎のいとこたちは、職場で異端児扱いされ、自民のえらい先生たちは、威張って歩いていた。汚職の小佐野けんじなど青森県の土地を買収し、多くの政治家が将来土地が上がりそうな場所をこぞって買い占めているという噂が絶えなかった。青森県出身国会議員や県議会議員など政治家がどこで情報を得るのか、土地を安く買占め、ある日、中央のプロジェクト用用地に転売されているといった噂もたえなかった。

貧しい下北南部は、津軽に比べやませ寒い空っ風が吹き作物ができにくく、下北は入植者も多い。私自身は、子供時代津軽にも南部と両方に住んだことがある。青森県が廃藩置県で岩手、秋田の上が余ったのが文化も言葉も違うのに一緒の県になった中学校で習った。津軽の学校から南部の学校に転校し、言葉が違うので、新しい学校で、南部弁のアクセントがまねができなくびっくりした。津軽弁と南部弁は違う。何が違うというと、南部弁は岩手の言葉に似て、津軽弁は、秋田に近く、北海道函館で話されるイントネーションに似ている。津軽と南部の違いは、南部の人は、穏やかに話し、根回しが案外上手、負けながら勝負に勝つ。津軽は津軽人気質で、がんがんとまっすぐけんかをする。南部人気質はおだやかというのが私の印象である。顔にでてしまうのは、津軽人?。太宰のように格好をつけたがるいいふりし(えふりこぎ)は、津軽で、南部のひとは、卑下をしながらも、徐々に自分の持ち場を増やす。プライドが高い津軽のひとは、津軽弁のように、ぱあっと怒って残らない?自分勝手分析は子供時代の観察によるもので、実はあてにならない。南部は権謀術家的な手腕があり、外は穏やかでスマートである。津軽は、けんかっぱやく、ラテン気質。さてあたっているだろうか。どっちでも関係ないといえばそれまでだが、青森県を理解するには、異なった文化があり、なぜ南部にばかり原子力関連施設そして三沢の米軍基地などが集中しているのかは、土地や太平洋岸といった条件もさることながら、こういった気質も影響していると見る。下北は、むつ市など、田舎にいくと、青森市にでてくるのが一生の夢といった田舎の人も昔いて、不便なところだった。中学校の時に、下北の田舎から一番で青森の進学校に合格し、下宿生活をしていた同級生などいたが、彼らはどういうふうに、今の下北や南部を見ているのだろうか。産業の復興と見るのだろうか。お金が落ちる分、地方都市の活性化と思い、プラスに思っているのだろうか。意見を聞きたいところである。







南部の六ヶ所村は、小川原湖という日本の中で米軍の対ロシアなどの情報収集の通信基地があったところ近くにある。米軍基地の通信秘密基地で、小川原湖の中の島、米軍関係者でも許された人だけがはいることができる場所にあった。ソビエトなどのな通信を傍受していたのだろうか。時間がたって、コンピューターが発達し、世界中で情報が得ることができ、縮小化され、通信基地はなくなったと認識している。象牙の塔とか言われていたような記憶があり、実際外から見たことがある。働いていた米軍兵がたまたま学生時代に電車で隣りあわせでおしゃべりをしたが、日本語が上手でぺらぺらだったことを覚えている。通信専門で、小川原湖の中にある通信の島に働いているといっていた。ずいぶんあれから時間がたったような気もする。

津軽は、弘前市に津軽藩があり、りんごや米、農業など案外青森県でも豊な土地柄だった。南部下北にばかり、原子力施設が固まっているのは、興味あるところである。アメリカ軍の基地といい、原子力発電所といい。今回夏に青森に行き、地元産業、ムラや町おこしが活性化しているのに驚く。おそらく少しはお金が流れているのだろう。下北のほうのワイン作りなど、町民のやる気は確かに十分感じられる。


六ヶ所の近くにはとても優秀な酪農家たちがいて、おいしい牛乳や肉を生産している。六ヶ所村の小川原湖で夏にキャンプや湖水浴場で泳いですいかわりをしたり、蜂に刺された経験がある。核関連施設などなかった本当に美しい場所だった。三沢米軍基地の湖水キャンプ場があり、70年代は、ブラックとホワイトに別れていて、どういう意味ですかと米軍関係者に聞いてもらったところ、黒人用湖水浴場と白人用湖水浴場に分かれているのですといわれたのには、心底驚いた。そういう時代だった。

自民党主導で六ヶ所村の将来は決まっていた。安全安心、クリーンエコという言葉が、いかに言葉だけだったのかと時間がたってはじめて分かった。ステンレスは2000年たっても腐りませんから、大丈夫です。と青森の新聞の広告記事に電力会社が、将来の核の使用済み燃料の入っているものについての一般の人の質問に答えていたなぜなぜシリーズといったものを思い出す。その時ほんとうかなあと一瞬思った。一世代30年働く時間を先送りにする、30年から40年とは問題を次世代に先送りする日本人気質そのもの。












青森県の新聞の一面に主婦や高校生などをスウェーデンに送り東北電力の原子力はこんなにきれいでクリーン安全といったプロパガンダの宣伝記事が載っていた時に、無料で北欧旅行をし、作文を書かせられた人たちには、罪がない。残念だが、地震がないスウェーデンとはまったく事情が違う。

日本の国土は狭い。小さな島国は、国土が狭いために、原子力を抱え込むには、捨て場もないし、今回のように一度事故が起きたら、国全体に汚染が広がってしまう。生態系に実験室の中にしかありえない毒*放射能を撒き散らしてしまったことは、もう取り返しがつかない。六ヶ所を思うときに、ふと中国を思い出す。富めるものから富かになろう。汚染は、そこだけの話ではない。おそらくなにかのために、ムラから外に避難場を今から準備している人たちもいるかもしれない。地元の産業の活性化の背景にあるリスク。非常に複雑な気持ちがしてならない。日本のためになるいいことをしよう。目に見えにくいものだけに、これは、100年後そのあとに問題が表面化してくるのかもしれない。今生きているひとは、子供を含めてそれを見届けることはむずかしいかもしれない。
by nyfiken | 2011-09-07 18:26