スウエーデンの面白いものたち


by nyfiken
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Kenya incidentケニア

After 2013, I visited Kenya Nairobi and flew out from capital.
In fact after arriving at the airport landing, the airport bus took us to an international arrival terminal, I was on the bus, then bus drove aside burnt building to the small buiding. In fact that time just after the incident, so new international airport has not been built yet.When I arrived at the immigration, the airport looked quite local size airport. Then soon I realized the fact of fire incident. The outside of airport building, an arranged taxi driver was waiting for and before going out from the terminal, I saw ATM machine so I used a bank card to withdraw money. Nirobi is the capital of economy in these area. Taxi driver could speak quite good English and friendly. The dark road looked crowded with many cars at night. I wonder how the driver could see other cars. It was just lucky to enable me to the hotel that located in quiet area where most christian peoples stayed. Peaceful. The hotel reminded me of old style of hotel in Bankok in 1980th. The simple hotel room has little kitchen and toilet, mosquite net and lamp.



2013年のナイロビでのショッピングセンターの事件や、空港が不審火で焼けた直後に、ナイロビを訪れた。
夜の空港バスでターミナルまでの空港内をぐるりとバスが回ったと思ったら、比較的小さな建物の前で止まった。焼けたインターナショナル到着の国際線ターミナルは、閉鎖されて代わりに、小さな入り口から入った。
ナイロビ空港はなにがなんだかよくわからないくらいごった返しているということを聞いていたので、シンプルな空港に驚いたら、焼けてシンプルになったんです。と聞いて納得した。空港内にATMがありそこでお金をおろす。外にでると大勢の人が待っている中にあらかじめアレンジしていたタクシーの運転手が名前を書いている紙を手に持って待っていた。
あまり明るいとはいえない空港の駐車場の中に停められていたタクシーに乗り込むと、蚊がぷーんと飛んでいる。ナイロビの近くには、サファリがあるからその辺から飛んでくるのだろうか。空港からホテルまでの暗く、多くの車が走っている道の印象は、20数年前のタイのバンコクあたりの町を思い出させる。

キリスト教徒が多く泊まるというホテルは、夜は、頑丈な高い扉が閉まる。中に入ると都会のオアシスのようだった。建築スタイルは、これもやはり80年代にバンコクあたりにあった古いホテルを思い出させる。植民地風だが、華美ではなく、シンプルだが小さなキッチンがついて、蚊帳がさがっている。夜は少し高原のように涼しくなるので厚手の毛布が用意されていた。レストランには、ビュッフェスタイルの食事が用意されていたが一体何を食べたのかあまり記憶にない。もちろんお酒類はおいていないホテルなので、お茶を飲んだ記憶がある。アフリカ人がよく食べるパンがおいていた。
ゆっくりと時間が流れるようなレセプションでは、西洋化したクロークの男性が、流ちょうな英語で、少し待ってください。という。ここでは、せかない感じである。

ナイロビ空港で6時間トランジットで待ったことがある。空港の中の椅子に座り、お店をちらちらのぞき、奥にあるカフェ ナイロビジャワコーヒーショップはいつも混んでいて、中が暑い感じだったし、その人の行列ができるちょっとモダンでにぎわっているカフェからなんのことはない、コーヒーを注文して待合の椅子に座り待つ。
Nairobi Java coffee shop


アフリカのケニアでなければみられないかもしれない、背の高いマサイ族の男性があの民族衣装で普通に歩いている。偉いと思う二つの民族が世界であるとするならば、迎合しないマサイ族とブータン人のあの丹前を短くしたような正式なコスチュームを着て国際会議に普通に出席していた人たちだ。ロシア語から日本語、英語と日本語の二人の通訳を引き連れて堂々と出席するモンゴル人の物おじしない誇り高い気高さなどを見た時も同様に感じたことである。日本人が着物を着て現代国際会議にでるなら、??となるが、明治時代の西洋化は、本当にモダン化が正しかったかどうかは、マサイ族の誇り高き衣装や丹前を半分に切ったような短い着物姿にポシェットを下げて堂々としているブータン人を思うと、一瞬考えるものである。鎖国がとかれて海外に出て行った日本の元侍たちがかみしもちょんまげで欧米人との国際会議に出て行った時に日本人を笑った人などいないはずだ。己の姿を鏡で見て西洋式のスタイルにコンプレックスなど当時持ったものなのだろうか。

後年伊藤博文が渡米した同じ時に2艘の船を日本国が送ったわけだが、勝海舟が乗っていた船に日本から船医として乗り込んだ人の子孫の知り合いから話を聞く機会があった。








すなわち、勝海舟や他の人たちは、テレビや映画で精悍に荒れ狂う海のマストの下で息を荒くアメリカを目指したといったテレビのシーンで育った私には、その軍医の子孫の人から実際の話を聞き、”やっぱり!これが本当の話。”と妙に納得した。というのも実はあまりに太平洋の荒波がすごく、遠洋へ渡る帆船に慣れていない日本からの人たちは、みんな船酔いがひどく、ほとんど部屋から出て来れなかったという。唯一もともと船乗りだったジョン万次郎だけがお役にたったと後に船長が書いている公文書がでてきた。テレビドラマで勝海舟がアメリカを目指せ!とかなんとか豪快にマストから遠くの海を見て息を荒くしたというよりは、部屋の中で半分船酔いでみな死んでいたというのが歴史の事実。オランダに作らせた船でアメリカに行く時に、勝海舟が唯一正しかったのは、誇り高い元侍が、”日本人だけで渡れるのだから、船が日本沖で沈んで救助され其の後日本からアメリカに戻る必要があるアメリカの船員などを乗せようという申し出に、一緒にいかなくたって自分たちだけの力で行ける!”と息巻いた多くを説き伏せ、”いやいや、せっかく船乗りの技術があるアメリカ人の船員、万が一のために乗せましょう”と説き伏せたのは、道中、船酔いに慣れているアメリカの船員が動かしてスムーズにアメリカまで渡れたという。遠い太平洋を渡る船を鎖国のために実際動かした経験がなかった渡米をした最初の日本人乗組員の多くは、勝を含め船酔いがひどく病気になり食べられず、船室に閉じこもっていたという歴史の事実を思うと、案外現実を見据えていた勝海舟は、正しかったのだと、妙に納得する。船医の子孫さまは、家族で受け継がれている話は、勝さんは、苦しまれてお部屋で休まれていたそうです。テレビドラマでは、船酔いがあまりフォーカスされず、鼻息の荒い”日本を発展させるぞ!新世界をめざせ!”と力強い勝海舟を描いていた。感動しながら見ていた父親のそばで子供時代にテレビドラマを見ていたが、大人になると英雄の雄姿の陰の部分や人間らしい部分がわかりむしろほっとするのである。

話は、アフリカに戻る。



さて6時間ナイロビ空港で待っているときに、空港のお店を冷やかしたり、多くの中国人のアフリカ在住の人たちがリラックスした感じでトランプをしているのや、韓国語でなぜか書いている免税店には、東洋人はひとりもいないのに、ちょっと不思議に思ったり等々。不思議なコスチュームを着ていた団体にもあった。女性がポルトガル人の末裔のようなケープをまいて、にたようなワンピースを着ていた集団だが、いまだにどこの国の人たちなのか知らない。ケニアのショッピングセンターの事件直後だったために、緊張感を持って空港で人を見ながら、本を読みながら乗り継ぎの飛行機を待っていた。その時に、一人のアフリカ人が、携帯電話を床にむけて投げ捨てた。すわ時限爆弾式の携帯電話と頭で決めつけてしまった私は、一瞬体が凍りついた。携帯は壊れなかったが、そのまま床を滑り、壁にぶつかった。ゆっくりと掃除をしていた女性がまず見つけた。それを投げつけた男は、その場を既に立ち去っていた。私は、あらたな武器かもしれないと思い、心中穏やかでなかったが、そのうち警備の人が来て、携帯を持って行った。その間、爆発するのではと気が気でなかった。その場をすぐに離れるべきではないかと思って数分時間がたった。空港のロビーの通路には、多くの往来の人が行きかっていた。

その場所は、ナイロビ空港の出発ロビーにある有名なJAVAコーヒーショップから少し離れた通路トイレの前近くだったのだが、後に旅行客でにぎわっているJAVAコーヒーショップで爆発があったというニュースを聞くにつけ、内心あの携帯電話を地面にたたきつけたの男もなにかをたくらんでいたのではと思うと内心穏やかではない。JAVAコーヒーのコーヒーショップで起きた小爆発だが、最も流行っているコーヒーショップ、(私もそこでコーヒーとお菓子を買ったが)でこのニュースは小さいニュースだが、今回のケニアの大学でテロを起こしたグループで訓練された人たちが空港小爆発がらみの事件で逮捕されているニュースを見つける。


ナイロビ空港から他のアフリカの国や国内線など多くの飛行機がでている。サファリ旅行のおばさんやおじさんが白いシャツにサファリ色のパンツで(その多くは退職者)颯爽と歩いていた。ケニアのナイロビには、スイス航空でヨーロッパから入ったのだが、ナイロビの飛行場は、ローカルの飛行機で別な島に飛ぶ人や国際線の乗り降りでにぎわっている。そこから、搭乗口から行先を確認し列に並びあまり詳しい説明がなく、島に着いた。私の記憶が正しければ、目的地以外に一度降りるということは、案内を聞きのがしたのかもしれないが、聞いていなかった。疑問を持たず、降りて空港のイミグレーションを普通に通りスタンプをパンと押され、荷物を待っていたら、荷物がいつまでたっても来ない。不思議に思いここはこの国?ときいたら、隣の島だという。フランスの植民地の島で降りてしまったことを知り、あわてて係りに説明をした。イミグレーションの男が飛行機と連絡をとり、窓の外の滑走路から今すぐにも飛んでいきそうだった飛行機は、待ってくれることになった。空港バスが再び迎えに来て、飛行機に戻ることができた。いらいらして待っていたひとの視線を少しあびて、何事もなかったかのように座席に座った瞬間にすぐに飛行機は飛び立った。
by nyfiken | 2015-04-04 00:13